植物と叡智の守り人
三木直子 訳
(原題:Braiding Sweetgrass)
ニューヨーク州の山岳地帯。 美しい森の中で暮らす植物学者であり、 北アメリカ先住民である著者が、 自然と人間の関係のありかたをユニークな視点と深い洞察でつづる。 ジョン・バロウズ賞受賞後、待望の第2作。
<訳者あとがき>
ロビン・ウォール・キマラーの処女作『コケの自然誌(原題「Gathering Moss」)』に続き、第二作を訳させていただくという幸運に恵まれた。著者が「はじめに」で書いている通り、本書は「ネイティブアメリカンに伝わる伝統的な知識と科学的な知識、そして、一番大切なことのためにその二つを融合させようとする一人のアニシナアベの女性科学者という、3本の糸を編んでできている」1本の三つ編みであり、原題の「Braiding Sweetgrass(スイートグラスを編む)」にはその意味がこめられている。前作『コケの自然誌』が、印象として、自然科学が7割、ネイティブアメリカン的思想が3割であったとすれば、本書ではその割合が逆になっている。自然科学の本であると同時にこれはむしろ、環境哲学の書であると言っても差し支えないだろう。
ジョン・バロウズ賞を受賞した処女作の出版から10年、第二作である本書は 2013年に出版された。ネイティブアメリカンの目と科学の目を通してコケという極小の世界を鮮やかに描き、そこに世界全体を映し出して見せてくれた前作と共通するテーマを掲げながら、本書の視点はより大きく、そしてより切実感を伴っているように感じられる。処女作が出版されたとき著者は 50歳。おそらく執筆中、著者の2人の娘はティーンエージャーだったはずで、母親として多忙を極める時期であったことと思う。それから本書が出版されるまでの 10年の間に、二人の娘たちは独立して親元を離れ、著者は「子育て」の期間を終えている。
本書の中で著者は、同じくネイティブアメリカンである作家ポーラ・ガン・アレンの言葉をこんなふうに紹介している。
人生はだんだん広がっていく螺旋のようなもので、子どもたちが自分自身の道を歩み始めると、知識と経験が豊富な母親には別の仕事が与えられる。今度は私たちの強さは、共同体の幸せという、自分の子どもたちよりも大きな人の輪に向けられるのだ、とアレンは言う。その網はどんどん広がっていく。季節が再び巡って、祖母となった女性たちは「教師としての生」を生き、年下の女性の手本となる。ずっと歳をとっても、私たちの仕事が終わったわけではない。螺旋はどんどん大きく広がって、賢明な女性の教えは、彼女自身や家族という枠を超え、人間という共同体を超え、この惑星を包み込んで地球の母となるのだ。(本書129ページ)
まさしくキマラーは、2人の娘の「母親」という役目を終え、人間として、女性としてひとまわり円熟を深め、私たちの「教師」となったのだ。そしてなんと賢明な教師を私たちは得たことだろう——まさにそういう教師を必要としている、今というときに。
だが著者に言わせれば、真の教師は、著者でも他の科学者でもなく、自然そのものだ。自然は饒舌に私たちに語りかけるが、それが聞こえるかどうかは、私たちがその声に耳を澄ますかどうかにかかっている。本書では、「耳を傾ける」「耳を澄ます」ことの大切さが繰り返されるが、たとえばこんなくだりが、そのことを端的に語っている。
科学の傲慢さに心を侵されたやる気満々の若き博士だった私は、そこにいる教師は私だけだと勘違いしていた。自然こそが真の教師なのだ。学ぶ者である私たちに必要なのはただ、しっかりと気付けるようにしていることだけだ。注意を向ける、というのは、生きた世界とお互い様の関係を持つひとつの形だ——与えられた贈り物を、しっかりと目を開け、心を開いて受け取るということである。私はただ、学生たちがしっかりとそこに存在し、耳を傾けることができるようにしてやりさえすればよかったのだ。(本書285ページ)
アミミドロのクローン繁殖に、母親である自分の元から巣立つ娘のことを重ね、睡蓮の葉を見て、それでも続いていく相互関係を思う著者。そう、そこに注意を向けることさえできれば、自然から学べることは限りない。
実は本書の翻訳にあたっては、私の個人的な事情から、築地書館にわがままを言って通常の二倍近い期間をいただき、2017年の後半から半年以上にわたって毎日少しずつ作業を進めた。この間、私が生活拠点とする日本とアメリカはどちらも、私には狂気としか思えない政治的・社会的な不正、暴力、モラル低下の嵐が吹き荒れ、貧富の差は広がる一方で、社会の先行きを思うと暗澹たる気持ちになることが実に多かった。そういう中で、毎日少しずつ進める本書の翻訳は、一服の清涼剤のような気がしていた。キマラーの詩的な言葉が描写する自然の美しさ。そして、自然とともに生きる人々の姿には「正気」が感じられたからだ。
が、それは同時に辛いことでもあった。本書に描かれた、先住民族に伝わる世界観、人間と自然の関わり方がかつては「普通」のことであったこと、そういう世界のありようが、歴史のある時点では存在したこと。そして、自然と人間が調和して暮らしていた世界から私たちがどれほど逸脱してしまったかを、痛感せざるを得なかったからだ。歴史を振り返って「もしも」と問うことが無意味なのはわかっているが、もしも人類の歴史のどこかで何かが違っていたら、現在のような、経済効率と物質の豊富さばかりが重要視される消費型の社会ではなかったのかもしれない、地球は今よりももっと美しい場所だったのかもしれない、と考えると、深い喪失感を味わわずにはいられない。
科学の発達が人間の生活に、ある意味での安寧と幸福をもたらしたのは事実かもしれない。だがその代わりに私たちが失ったものはあまりに大きく、取り返しのつかないところに自分たちが向かおうとしているということに、多くの人が気づかない、あるいは気づこうとしない。私たちは、耳を傾けることを忘れてしまったのだ。
時計の針を逆戻りさせることはできないが、私たちには、地球という美しい故郷を失わずに、かつて人間と自然の間にあった関係を取り戻す時間が残されているだろうか——ジョアンナ・メイシーが言うように、「産業成長型社会から生命持続型社会へ」移行する時間が。
自然を畏怖し、尊重し、人間は自然の一部としてあらゆる生き物たちと対等であり、世界を好きなように支配する存在ではない、というネイティブアメリカンの世界観、考え方は、地球の自然環境を大切に思う人々の間では以前から尊重され、手本とされてきたものである。そしてそれが、私たちが「科学」と呼ぶものと決して相反せず、互いに尊重しあいながら共存できるものであるということを本書は教えてくれる。著者の言葉を借りれば「科学実験とは、何かを発見しようとすることではなくて、人間以外の生き物が持つ知識に耳を傾け、翻訳する、ということ」であり、「科学者には、その翻訳者の一人として物語を世界に伝える大きな責任がある」。
自然科学の語彙を増やしたくて本書を読む人は期待を裏切られるかもしれない。だが本書を読むことで、自然というものについて、また自然と人間の関係について、考え、語るためのまったく新しい言語そのものをそっくり身に付けることができる——そう考えてはどうだろうか。
そういえば、前作『コケの自然誌』の訳者あとがきを書いたときも、私はここ、アメリカ西海岸に浮かぶのんびりした島、ウィッドビー・アイランドにいた。都会育ちの私にとって、自然豊かなこの島はある意味、「もしも」を可視化してくれる場所である。この本を、一人でも多くの人が読み、「もしも」と想像し、自然という教師に耳を傾けようという気になってくれたなら、そして、自然が語りかける言葉を翻訳してくれる科学者が一人でも増えたなら、これほど嬉しいことはない。
築地書館より 2018年 7月 25日発売。