斧・熊・ロッキー山脈: 森で働き、森に生きる
三木直子訳
(原題: Dirt Work)
英語の一人称単数は 「I」 一つしかないが、日本語に訳す際には当然ながら、いくつもある選択肢から選ぶことになる。この人がもしも日本語が堪能だったらどれを使うだろうかと想像し、その人が英語で話しているときと日本語で話しているときとで、出来るだけ印象が近くなる選択肢を選ぶ——映画の吹き替えみたいに。これは通常、難しいことではない。もちろん主観の交じることではあるが、性別、年齢、社会的立場や発言の内容、そして文脈から、「その人が日本語を話したら(書いたら)こんな感じ」というのは自ずと決まってくることが多いからだ。主語だけではない。全体的な言葉遣いにも同じことが言える。ところが本書を訳し始めたとき、私はハタと考えてしまった。この人が日本語を話すときの口調が思い浮かばないのだ。何故なら日本にはこんな人はおそらくいないからだ。
ごく普通に大学を出た文学少女だった著者は、大学院進学までの一種の「つなぎ」のつもりで、ひと夏、国立公園の整備の仕事をすることになる。アメリカの国立公園を訪れたことがある人なら、そのスケールの大きさと同時に、管理の行き届き方に感心した人も多いのではないかと思う。北米の雄大な自然をアメリカという国が「所有」するに至った経緯の是非を論ずるのはさておいて、それがアメリカの公有地であるということを前提に考えれば、国立公園はたしかに良くできたシステムだ。そしてそのシステムを支えるのが「トレイルドッグ」と呼ばれる整備員たちである。著者はその夏、トレイルドッグとして働いた。
意外にも彼女は、もののはずみで始めたその仕事に生きがいを見出す。決して体が大きいわけでもない著者は、その体力的なハンディを根性と情熱で克服し、北米のスイスと言われるモンタナ州のグレイシャー国立公園と、北米の至宝、アラスカ州デナリ国立公園の大自然の中で十数年間、トレイルドッグとして厳しい肉体労働に従事する。斧の振るい方さえ知らなかった「普通の女の子」は、やがて男性陣を配下に従えるリーダーに成長していく。その過程で彼女は自然と対峙し、さまざまなことを学ぶ。原書の副題には「森での教育」とあるが、本書をヘンリー・デイヴィッド・ソローの『森の生活』の現代版になぞらえた人がいるように、まさにこれは、大自然を相手に働く日々の中で得た気づきを描いたネイチャーライティングである。
と同時に本書は、「自分らしくあること」に対する決意と賛歌でもある。女性である著者が、圧倒的に男性が多いトレイルドッグの一員となったことで浮き彫りになったとも言える、私たち人間が暮らす社会の枠組みが知らず知らず自分たちに課している足枷。それはつまり、本書で繰り返し登場する、「精神労働と肉体労働」「男の仕事と女の仕事」といった二項対立的な考え方であり、人間をそうした分類に押し込めようとする「らしさ志向」だ。
日本人は「らしさ」がことのほか大好きで、「らしさ」をとても大切にする国民だと思う。男なら男「らしく」、女なら女「らしく」、大学出はインテリ「らしく」振る舞うことが期待される。その人が属するある集団——性別、年齢、職業、出身地、出身校、その他もろもろ——の構成員が持つ典型像に近ければ近いほど好ましいし、そこから逸脱すれば眉を顰める。そういう窮屈な押しつけがましさとは縁遠いように見えるアメリカの社会だが、それでもステレオタイプはやはり存在するし、定型から外れれば目立ちもするのである。本書の著者のように、トレイルドッグとして一人前になり、男性の部下を率いるようになる女性はごく稀な、「変わった」存在だ。
肉体を使う重労働であること、一般的に男性の仕事とされる職業であること。そこから生まれるさまざまなジレンマや葛藤と闘いながら、著者はそれでも自分の気持ちに忠実であり続ける。女であることを否定するというのとも違う。フェミニズムを声高に叫ぶのでもない。森で働き、生きること。彼女はただ単に、「自分らしさ」に固執しているにすぎないのだ。そして、女性トレイルドッグでありながら、同時に英文学を愛する詩人であることも彼女はやめない——そのどちらも彼女らしさであり、それだけは、誰が決めて押しつけるのでもない、自分自身が決めることだから。
「男まさりの女性トレイルドッグの体験談」と聞いて読者が持つ想像を、本書は裏切るかもしれない。荒くれ男に交じってチェーンソーを使いこなし、下品な下ネタジョークを飛ばすかと思えば、移りゆく季節の描写や、野性について思い巡らす言葉はまさに散文詩であったりする。冒頭で書いたように、彼女の日本語という「声」を見つけるのが難しかった理由がそこにある。彼女の声はまさに、唯一無二という意味でユニークなものだ。どうかあらゆる先入観を脇に置いて、一人の人間としてのその声に、耳を傾けてほしい。
(訳者あとがきより)
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