コケの自然誌
三木直子訳
(原題: Gathering Moss)
アメリカには、「ネイチャーライティング」と呼ばれるノンフィクション文学のジャンルがある。ウィキペディアによればその特徴は「自然界についての事実や自然、科学的情報に依拠する一方、自然科学系の客観的な自然観察とは異なり、自然環境をめぐる個人的な思索や哲学的思考を含むということ」にあり、「1. 博物誌に関する情報 (natural history information) 2. 自然に対する作者の感応 (personal reaction) 3. 自然についての哲学的な考察 (philosophical interpretation)」という3つの要素を含むという。代表的なネイチャーライターには、ヘンリー・デイヴィッド・ソロー、ラルフ・ウォルドー・エマソン、レイチェル・カーソン、それにジョン・バロウズなどの名前が挙がる。そのジョン・バロウズ(1837—1921)を記念して創設され、アメリカ自然史博物館によって運営される「ジョン・バロウズ協会」は、1926年以降、優れたネイチャーライティングの著作を毎年一冊選び、「ジョン・バロウズ賞」を贈っている。2005年に同賞を受賞したのが本書である。
この事実が、この本がどんな本であるかを十分に語っていると思う。これは「コケの本」ではあるが、単なる植物図鑑とはほど遠い。大変身近なものでありながらおそらく一般人のほとんどは知らないであろう、びっくりするようなコケの生態が詳細に描写されると同時に、そこには、作者のコケに対する溢れるような愛情と、コケと自然から私たちが学ぶべき人生哲学がちりばめられている。まさにこれは、ネイチャーライティングの最高峰と言える。
その語り口はほとんど詩的と言ってよく、植物誌を読んでいるというよりも、洒落た短編小説を読んでいるような気にさえさせる。見ようとしなければ見えない極小のパラレルワールド。あたかも著者が首から下げている拡大鏡でそれを覗いているかのように、この本の中で、日常の風景はいつもと違った姿を見せる。そうして拡大鏡の中の小さなコケの世界はいつしか鏡となって、私たちの周囲の等身大の世界を同時に映し出す。コケについての興味深い事実について読みながら、いつの間にか私たちは、自分を取り囲む世界の、これまで考えたこともなかった様相に気がついていくのだ。拡大鏡の中の小さな世界と、そこから見上げる大きな世界に自分が同時に存在しているような不思議な感覚。そしておそらく、実際にそうなのだ。コケも、私たち人間も、同じ自然という秩序の中に生きているのだから。
本書の著者、ロビン・ウォール・キマラーは、北米の五大湖地方に暮らしていたネイティブアメリカン、ポタワトミ族の出身の女性で、ニューヨーク州立大学のCollege of Environmental Science and Forestry(環境森林科学部)で准教授として教鞭を執る傍ら、学部内に2006年に設立された Center for Native Peoples and the Environment(ネイティブアメリカンと環境センター)のディレクターを務める。
ヒト、動物、植物、そのすべては自然の一部であり、相互に深く関係し合っている——それはネイティブアメリカンの考え方の根底にあるものであり、彼らは自然こそがあらゆる意味での教師と考える。そう考えれば、彼らが自然について語るとき、自然に対する思いや自然についての哲学的な考察がそこにあるのはしごく当然なことに思える。そして環境や植物に関する学問・科学としての知識が加われば、それはまさにネイチャーライティングのエッセンスのすべてを備えた知恵となる。そういう知恵を具現化しようとしているのが Center for Native Peoples and Environment であり、そのディレクターである著者が、優れたネイチャーライターであるというのも大いに頷けるのだ。この本の翻訳の話をいただいたときにたまたま滞在していたバリ島と、私が毎年夏を過ごし、本書にも登場する太平洋北西部沿岸は、どちらも雨が多くて緑豊かな、ことのほかコケの豊富な土地柄である。以前から、木々の幹を見事に覆うコケに感心することはあったけれど、この本を訳して以来、今まで以上にあちこちにコケがあるのに気づき、しみじみとコケを眺めることが多くなった。「観る」ことを少しは学べたのかもしれない。幸いなことに、コケは田舎にも都会にも生えている。この本を読んだ方が、ふと普段の通り道の足元に目をやり、それまで気づかなかったコケの存在に気づいてくださったなら、そしてコケを取り巻く自然の営みに思いを馳せてくださったなら、とても嬉しい。
(訳者あとがきより)
築地書館より 10月30日発売です。ご予約はこちらからどうぞ!