柑橘類と文明
三木直子 訳
(原題: The Land Where Lemons Grow)
<訳者あとがきより抜粋>
この本はどんな本か、と聞かれても、一言で答えるのは難しい。柑橘類の自然誌であり、自然科学の本ではあることは確かで、レモンやオレンジというごくごく身近な植物とその果実について、ちょっとした物知りになれる。だが、これは同時に歴史書であり、紀行文であり、旅のガイドでもある。エッセイ集として読んでも充分面白い。訳していてこれほど楽しい本には、正直なところなかなか出会えない。
本書の原題は『The Land Where Lemons Grow』という。レモンが育つ土地? 妙なタイトルだこと、と思ったこのフレーズが、日本では 「君知るや南の国」として知られる一節であり、南の国とはイタリアのことだとわかったのは、本書を3分の1ほど読み進んだときだった。耳にしたことのある方も多いのではないかと思うが、これは、イタリアを愛したドイツ人作家、ゲーテの小説『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』に登場する詩の一部である。この小説はフランス人アンブロワーズ・トーマによって『ミニョン』という歌劇になり、この詩は、主人公ヴィルヘルムに想いを寄せるサーカスの少女ミニョンが、故郷イタリアへの望郷をうたうアリアとなった。他にもこの詩の歌曲は数十にのぼるといい、ベートーベン、シューベルト、シューマン、リスト、グノーほか、錚々たる作曲家たちが曲をつけている。また、この詩の日本語訳も、堀内啓三訳、森鴎外訳をはじめ数多い。森鴎外の訳を紹介しておこう。
君知るや南の国
レモンの木は花咲き くらき林の中に
こがね色したる柑子は枝もたわわに実り
青き晴れたる空より しづやかに風吹き
ミルテの木はしづかに ラウレルの木は高く
雲にそびえて立てる国や 彼方へ
君とともに ゆかまし
この詩がこれほどに芸術家たちに愛され、日本でも親しまれたのはなぜなのか、本書の中で、ゲーテがいかにイタリアを愛していたかを知り、その理由がわかった気がした。ゲーテは、イタリアを愛するあまり、イタリアの調香師ジョヴァンニ・マリーアがベルガモットの精油を使って創作した「オー・デ・コロン」に布切れを浸して箱に入れ、その横で執筆した、と本書にはある。ゲーテだけではない。他にも、モーパッサン、ディケンズ、D・H・ロレンス、アンデルセンといったヨーロッパの文豪たちが、イタリアを旅した経験を愛おしそうにしたためた著書や手紙が紹介されている。森鴎外自身、アンデルセンがイタリアを舞台にして書いた『即興詩人』を、10年という歳月をかけ、丹精込めて翻訳しているくらいだから、イタリアへの憧憬があったと考えても不思議はない。「君知るや南の国」という一節には、そんな憧憬の想いが集約され、読む者の心にもそれが伝わるのではないだろうか。
著者のヘレナ・アトレーは英国人で、若いときからイタリア式庭園について学び、その文化と歴史について 4冊の著作がある他、日本、ポルトガル、ウェールズ、カリブ海の庭園についても著書がある。インテリアデザインやガーデニング愛好者の雑誌への寄稿や国内外での講演のほか、イタリアをはじめ世界各地の庭園を訪れるツアーを開催している。また大学で学術論文の書き方を教えるほか、戸外でのライティング・ワークショップも指導している。数十年におよぶイタリアとのつながりの中で彼女もまた、数々の先人文筆家と同様に、イタリアを愛し、その文化や歴史に深い関心を持つようになったのだということは、この本を読めば明らかだ。そしてそんな彼女が、「君知るや南の国」というゲーテの詩の一節をタイトルに選んだのも、実に納得できることである。
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築地書館より 2015年 4月 29日発売。
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